news甲子園ボウルレジェンド〜羽間平安さんを偲ぶ〜

2022.12.24

約四半世紀にわたって西日本アメリカンフットボール協会会長を務めた羽間平安さんが9月27日、94歳で死去した。1988年に協会副会長に就き、98年に会長に就任。西日本のアメフト活性化をけん引した。

関西大在学中にアメフトを始め、48年の第2回甲子園ボウルでクオーターバック(QB)としてチームを大学日本一に導き、第3回甲子園ボウルにも出場。その後は甲子園ボウルで主審を長く務めた。

西日本アメリカンフットボール協会副会長の古川明さん(91)は第2回大会で躍動する羽間さんを見た。旧制池田中(現大阪府立池田高)の生徒だった古川さんが試合の補助でサイドラインに立っていると、目の前で羽間さんがタッチダウンした選手とエンドゾーンになだれ込んだ場面が鮮明な記憶として残っている。

羽間さんと古川さんの出会いはその数カ月前だった。石川県であった国体に出場していた古川さんは、ハーフタイムのハドル(円陣)の中に当時関西大の学生で角帽をかぶった羽間さんが入って会話に耳を傾けているのに気付いた。それからの長い付き合いだった。

第3回大会にも出場した羽間さんは卒業後、凸版印刷に勤務する傍ら、第7~第38回大会で主審を務めた。羽間さんと言えば、審判の際にはめる白い手袋。決まりがあるわけではないが、羽間さんは「みんなが『かっこいい』と言うから」と常に身に着け、トレードマークになった。古川さんは審判姿の羽間さんについて「シャキッとした姿勢で走り方もきれいでかっこよかった。名審判です」と振り返る。


60年代前半、羽間さんや古川さんらは、米国から取り寄せた全米大学体育協会のハンドブックをもとに日本語版ルールブックの作成に取りかかった。以前から日本語版はあったが表現がわかりにくかった。地下鉄淀屋橋駅近くのレストランに定期的に集まり、各章の担当を分けて翻訳した。まとめ役の羽間さんは顔を出すと、細かいことは言わず、にこにこ笑って「やっといて」と周りに任せ、「おいしいものなんでも食べ」と夕食をごちそうしてくれた。1年ほどかけて65年に完成したのが、今のルールブックの元になっている日本アメリカンフットボール協会の規則だった。

西日本アメリカンフットボール協会の役職を長く務めた羽間さんだが、運営については周囲を信頼し、「頼むで」とほとんど口を出さなかったという。2000年から04年まで関西大の理事長も務めた羽間さん。勉学をおろそかにせずに運動部を強化しようという基本方針だった。

古川さんが羽間さんと最後に会った21年の春、「甲子園ボウルは行かれんと思うわ。頼むで」と声をかけられた。第1回から米国留学の期間をのぞき前回まで、欠かさず甲子園ボウルに訪れていた古川さんは今回、会場へ行くのを控える。だが、羽間さんから託された「頼むで」の言葉を胸にテレビ観戦で熱い視線を注ぐ。

(77回大会公式パンフレットより)