甲子園ボウルとは 〜大会の歩み②〜

昭和30年代(1955年~1963年)

1955年(昭和30年)11月23日の第10回甲子園ボウル。関東は立教大が連続出場するかと思われていたが、日本大が初出場。日本大は1952年に監督就任したハワイ生まれの日系二世、竹本君三監督が選手のリクルートから手がけ、4年計画の猛練習で鍛え上げ、その4年目の1955年に成果を出した。竹本の原書による戦術研究に加え、パワーあふれるラインを前面に押し出して戦う強豪チームだった。 これに対して「科学的フットボール」の関学大は、相手のパワーをコントロールし、戦術で勝ち上がっていこうというチーム。個性の異なる両チームは、この初対戦からジャージの色にちなんで「赤の日大、青の関学」と呼ばれ、良きライバルとして甲子園ボウルで戦い続けることになる。 甲子園における日本大、関学大の第1回目の対戦となった第10回甲子園ボウルは、歴史に残る好ゲームとなった。試合は、前半から日本大がリードしては関学大が追いつくという展開。そして終了直前、20-26と関学大がリードされた場面で、QB鈴木智之から40ヤードのパスを受けたEの西村一郎がさらに45ヤード走り同点TD。試合は甲子園ボウル初の引き分け、両校優勝となった。ただ日本大の圧倒的な個々の力は、その後の日本大の活躍を十分に感じさせるものであった。 日本大の甲子園デビューではじまった昭和30年代は関東連覇の時代となった。1956年(昭和31年)に関学大が甲子園ボウルに優勝した後、1957年から関東の8連覇がスタートする。1960年(昭和35年)の立教大の甲子園勝利をのぞき、これをはさんで篠竹幹夫監督の率いる日本大が3連覇、4連覇を遂げた。

昭和40年代(1965年~1969年)

昭和40年代前半は学園紛争の時代であった。1969年には東大入試が中止になり、大学スポーツもその影響を受けた。関東の代表は立教大、日本大、明治大と入れ替わったが、関西は、関学大が連続出場の単独記録を依然として伸ばしていた。

1970年代

学園紛争が終わり、関東では強豪日本大が力を盛り返した。1971年、関学大との対戦で、試合途中から日本大が採用したショットガン・フォーメーションはその威力を見せつけ、1970年代後半からスタートする日本大甲子園連覇の始まりを予感させた。 1972年、法政大がリーグ戦初優勝、その勢いに乗って甲子園ボウルでも初出場、初優勝を成し遂げる。また1975年と1976年には、明治大が少数ながらも精鋭をそろえ、2年連続甲子園出場を果たしたが、連覇中の関学大の前に敗れ去った。 一方、1972年から関学大のヘッド・コーチに復帰した武田建は、パスを軸に攻撃を組み、うまく攻撃で時間をコントロールしながら確実に勝つチームを作り、その翌年の1973年から、甲子園ボウル史上初の5連覇を達成する。 1974年から創設された年間最優秀選手に与えられる「チャック・ミルズ杯」も連続して関学大選手が獲得。スマートな攻撃を誇る関学大バックス陣のラン、そしてバランス良く使われるパス攻撃は、フットボール人気の高まりの中で、「アメリカンと言えば関学」のイメージを新しいファンにも定着させた。 1976年のアメリカ建国200年というトピックスもあり、この1970年代は、さまざまな分野でのアメリカ文化が日本にもたらされた時代でもあった。アメリカンフットボールも例外ではなく、若者に人気のあるスポーツとして様々なメディアに取り上げられるようになった。 1980年代に甲子園ボウルに登場する京都大が水野弥一監督の指導のもと、力をつけはじめたのもこの1970年代。1976年にはリーグ戦で初めて関学大を破っている。 1978年、関学大5連覇のあと、前年甲子園勝利の牽引役であったQB猿木唯資を春の事故で欠いた関学大は、甲子園ボウルで日本大に7-63と完敗。ショットガンを完成させた日本大は、この後1978年から関学大に続き甲子園5連覇を達成する。
©関西アメリカンフットボール協会フットボール史研究会
参考資料: 「毎日甲子園ボウル50年史」毎日新聞社
「関西アメリカンフットボール史」関西アメリカンフットボール協会