「チャック・ミルズ杯」。それは日本全国の学生アメリカンフットボールで、1年間を通じ、最も活躍した選手に贈られる年間最優秀選手賞。
1974年の創設以来、関東学生リーグ、関西学生リーグの選手を対象に、甲子園ボウル試合会場での記者投票によって選出されてきたが、2009年より全日本大学選手権となったことを契機に、全国8地区の中から年間を通じ、最も功績のある選手が選ばれることとなった。
ちなみに現在の選考方式になる以前に2回、甲子園ボウルの敗戦チームからミルズ杯受賞者が出ている。1982年・第37回大会のRB松田明彦(京都大)と、1985年・第40回大会のRB吉村祐二(明治大)だ。
チャック・ミルズ氏は、合衆国のアメリカンフットボールコーチ協会(AFCA)の委員会メンバーを務めた経験を持ち、カレッジフットボール協会(CFA)コーチ部門の初代書記長でもある。
ミルズ氏は、NFLカンサスシティー・チーフスのアシスタントコーチ時代に、第1回スーパーボウル(NFLチャンピオンシップ)に出場を果たした。以来、30年近くに渡って、カレッジフットボールのヘッドコーチを務め、4度のリーグ最優秀コーチに選ばれ、彼の指導したチームは4回、全米ランキング入りを果たしている。
ミルズ氏が、カレッジフットボール界から高い称賛を得ているのは、フットボールのコーチングのみならず、教え子の89%が大学を卒業し、文字通り『文武両道』を実現していること。さらに彼の下でアシスタントコーチを務めた人材のうち、17名はその後カレッジのヘッドコーチに就任、7名はプロチームで活動している。
1969年、アジア地区駐留の米軍フットボールチーム指導のために来日していたミルズ氏が、横須賀基地チームのヘッドコーチであったクリス・ペラ氏の紹介を通じて、関西協会のメンバーと知り合う。このことがきっかけとなり、1971年に、当時ミルズ氏がヘッドコーチを務めていたユタ州立大フットボールチームの来日が実現する。
この全米でトップ25に入る強豪校の初来日は画期的な出来事だった。
ユタ州立大は、前評判通りの強さを見せつけ、関東と関西で日本の学生選抜チームに圧勝するが、このときに実施されたクリニックで、日本のスポーツ界はテーピングの存在とその重要性を初めて知ったといっても過言ではない。その他にもスポーツドリンクの効用、メンタルトレーニングの重要性の確認など、アメリカの最新スポーツ科学を、日本で最も早く取り入れようとしたのが当時のフットボール界であった。
その後もミルズ氏は、本場のフットボールや、そのトレーニング方法を学びたいという関係者の熱意を受け止め、フットボール留学を受け入れ、彼自身も毎年ように来日して積極的にクリニックを行った。
ミルズ氏が日本のフットボールにもたらした最大の教えは何だったのか。「それは“discipline”だ」と、現在もミルズ氏と個人的交流が深い、関学大の元エースQB鈴木智之氏は語る。(甲子園ボウル第8回~第11回に出場/3勝0敗1分)
英訳的には「教練・鍛錬・規律」と訳せる言葉だが、米国フットボールコーチの口からしばしば発せられる“discipline”という言葉には本来の意味以上に、「チームへの貢献」、「犠牲の精神」、「高潔な人格や品位」といったチームスポーツにとって最も重要なエッセンスが含まれている。「ミルズ氏は我々にフットボールは“discipline”のスポーツ、サムライの精神と同じである、と教えてくれた」と、鈴木氏は語る。
ミルズ氏は、日本にフットボールの神髄となる「こころ」を伝えてくれた功労者なのである。
こうしたミルズ氏の功績をたたえて、「誰が言い出すわけでもなく、ごく自然な流れで」(関西協会・古川明氏)、1974年から学生の年間最優秀選手賞であるチャック・ミルズ杯が制定され、甲子園ボウルで表彰が行われることとなった。
ミルズ杯は学生フットボール選手にとって最高の目標となっている。ミルズ氏の真の功績は、いまもなお途切れることなく続く日米フットボールの交流を生んだことであり、世代が変わろうとも、受け継がれるものを残してくれたことである。
参考資料:「関西アメリカンフットボール史」関西アメリカンフットボール協会