news古川明トリビュート〜日本のアメリカンフットボールの発展の側にはいつもこの人がいた〜

2023.12.17

今年、日本のアメリカンフットボール発展、人気拡大に尽くされた古川明(ふるかわ・あきら)さんが7月30日に死去されました。


古川さんは大阪・池田中(現池田高)でアメフトに出会い、関西学院大アメリカンフットボール部に入部。4年連続で甲子園ボウルに出場し、初優勝に貢献。その後、米デンバー大に留学され、最新の戦術やマーケティングなどを学び、帰国後、汽船会社に就職後、1
970年に現在の関西学生連盟の専務理事に就任。場内解説や審判団の育成、広報体制の強化に力を注ぎ、競技の普及に努められました。

日本の大学アメフトの今に至る発展の側には常に、古川さんがいらっしゃいました。

甲子園ボウルでは個人を偲び、第3Qに入る前に会場ビジョンにて古川明トリビュートを行います。
天上へ旅立った古川さんに向けて会場全体で大きな拍手を送りたいと思います。

古川さんを偲び、関西アメフトを長く取材をされているスポーツニッポンの堀田記者から公式サイトに追悼文をいただきました。こちらに掲載させていただきます。

【古川明さん追悼文】      スポーツニッポン新聞社・堀田和昭


 甲子園ボウルのキックオフが近くなると、あの日、あの時の古川明さんを思い出す。5年ほど前、大事な宝物を見せるような顔で、こんな話を聞かせてくださった。

 「私ね、甲子園ボウルは、1試合を除いて、全部現場で観てるんですよ。その1試合は米国に留学してる時でね。それ以外は、ホンマに全部、会場で観てますわ」

 その口調には、フットボール人としての矜持と、「完全」を逃した、ほんの小さな悔しさがこもっていた。戦後すぐに池田中でフットボールを始め、関学大のガードとして第3回(1949年)から4年連続出場。時に審判員として、時に関西連盟、日本協会の重鎮として、フィールドを疾走する後輩に温かい視線を送ってこられた。日本最古のボウルゲームが刻んだ歴史は、アメフトに全ての情熱を傾けた古川さんの人生に重なる。

 古川さんが密かに誇りを持っていた「記録」も、コロナ禍のため、2020、22年は自宅でテレビ観戦を強いられた。最後に聖地へ足を運んだ2年前。目立たない時間帯を狙って、息子さんとグラウンドで2ショット写真を撮られたそうだ。母校の優勝を一緒に喜んでもいいのに、公私混同を嫌う古川さんらしい心配りだった。

 92歳で旅立たれた年、関学大が史上初の甲子園ボウル6連覇に挑む。古川さんは生前、公の場では、絶対に「KG愛」「池田愛」を口にされなかった。公人として肩の荷を下ろされた今、空の上から思い切り、母校を応援してください。

試合のセレモニーで使用したビデオトリビュート


日本のアメリカンフットボールの発展の側にはいつもこの人がいた。

柔道をやっていた少年時代。進駐軍から教わったアメフトに夢中になった。

関西学院の門戸を叩き、入部したアメフト部では甲子園ボウルに初出場にて優勝。
今に続くチームの礎を友と共に築いた。

卒業後は本場を見たいと海を渡りアメリカへ。
最新のアメフト戦術や大学で学んだ広報の知識を持ち帰り
帰国後に就職した汽船会社ではホスピタリティーを学んだ。

真のアメフトの振興を願い、本場のルールブックを仲間と共に翻訳。
最新の情報に常に寄り添ってきた。
そして仲間を増やそうと多くの大学のチームの創設にも関わった。

更なる発展を目指して連盟を本業とし、 それからは学んだ知識を生かし、
メディアとの関係性を強め 足を運んでくれるファンの環境に大いに目を配ってきた。

西宮球場が4万人の大観衆で埋まっていた時代をご存じだろうか?
学生スポーツの頂点にアメフトを押上げた縁の下には
いつも優しい笑顔で黙々と競技を支えた古川さんがいた。

どうかこの甲子園の青空の遥か天上から 私たちをそしてアメフトの未来を見守ってください。
ここで皆さんと共に古川さんに感謝を込めて 盛大な拍手を送りましょう。

ありがとう古川さん。ありがとう。