甲子園球場開場100周年特別寄稿甲子園ボウル誕生(第三回)
丸山健夫
武庫川女子大学名誉教授

昭和十七(1942)年の甲子園一帯(大阪市所蔵航空写真(昭和十七年)

甲子園一帯に、大レジャーランドをつくる三崎省三(みさきせいぞう)の計画。それは戦前、かなり進展していた。

枝川の跡地には、甲子園球場を皮切りに数多くのスポーツとレジャーの施設が立ち並んでいた。

甲子園大プールとも呼ばれた甲子園水上競技場
(阪神電気鉄道)

一万人の観客を収容する競泳用の大プール。甲子園水上競技場という名前のその施設には、飛び込み台や夜間照明もあった。

二万人収容の甲子園南運動場では、フットボールや陸上競技の国際大会が開催される。

阪神パークの人気アトラクション・バタフライ
(阪神電気鉄道)

阪神パークという遊園地では、最新鋭の電気仕掛けの遊具が大人気。動物を放し飼いにする日本の草分け的動物園も併設されていた。

阪神水族館とトンネル水槽
(筆者蔵)

遊園地の隣には日本一の水族館、阪神水族館があった。日本で初めてクジラの飼育に成功。天井がガラスのトンネル水槽は当時は珍しかった。

甲子園国際庭球倶楽部のセンターコート
(阪神電気鉄道)

甲子園国際庭球倶楽部のテニスコートには、百二面の練習用コートと一万人収容のセンターコート。世界一のテニスクラブといわれた。

雪を新潟から運んできて開催されたスキー・ジャンプ大会
(阪神電気鉄道)

甲子園球場では、冬にはスキーのジャンプ大会まで開かれた。そして各施設のあいだを路面電車が走る。甲子園はボールパークといえる先進的な街だった。

昭和二十三(1948)年の甲子園一帯
(国土地理院地図・空中写真閲覧サービス)

だが、これらの施設の大半が、今の甲子園にはない。実は昭和十八(1943)年から順次、阪神電気鉄道のスポーツとレジャーの施設は、そのほとんどが軍に接収されてしまったのだ。

遊園地は取り壊され、テニスコートは飛行機の検査場となる。甲子園球場内の部屋には軍需工場が入り、外野には軍用トラックが並んだ。

第一回毎日甲子園ボウル
(毎日新聞)

昭和二十(1945)年八月、やっと戦争が終わった。これで春がきたと思えた矢先の十月、甲子園球場は、今度は米軍に接収されるのだった。球場内の部屋に、米軍兵士が寝泊まりした。そしてグラウンドは米軍の体育学校となり、いろいろなスポーツが行われる。

中でも人気だったのが、アメリカンフットボールである。母国で腕に覚えのある兵士たちが選手となった試合は、部隊や師団対抗の大会にまで発展する。甲子園球場のあった鳴尾村はイチゴ狩りで有名だったから、大会名はストロベリーボウル。米軍は、近隣の大学のアメリカンフットボール経験者に、ゲーム観戦の招待状を送ったという。試合を観戦した選手たちが、アメリカンフットボール復活をあと押ししたにちがいない。東京に先んじて関西は、部や連盟がいち早く復活。新聞社と一緒に、東西大学対抗戦を開催しようと動き出す。もちろん会場の第一候補は、甲子園球場である。

昭和二十二(1927)年一月、「甲子園球場でのスポーツ復活」を熱望する声に米軍は、球場の接収を一部解除した。これを受けた復活最初のイベントが、全国選抜中等学校野球大会、今のセンバツ高校野球だった。三月三十日に開幕し、四月七日に閉幕した。その一週間後の四月十三日、アメリカンフットボールの甲子園ボウルが開催されたのだ。東西の覇者、慶應義塾大学と同志社大学が、大学の日本一をかけて戦った。

終戦からわずか一年半ほどの昭和二十二(1947)年の春。
敗戦直後の日本を勇気づけるスポーツイベントが二つ、甲子園球場で開催されたわけだ。
野球とアメリカンフットボール。
それは、アメリカでこの二つのスポーツと出会い、甲子園球場をつくった三崎省三が、心に想い描いた甲子園の風景であった。