甲子園球場開場100周年特別寄稿甲子園とアメリカンフットボール(第一回)
丸山健夫
武庫川女子大学名誉教授

三崎省三(1867-1929)

「これは、おれのいうているのと違う。こんなのとは違う」

オープン当時の甲子園球場
(筆者藏)

甲子園球場が出来て間もない頃、男は球場でラグビーの試合を見たあと、社員にこう言ったという。男の名は、三崎省三(みさきせいぞう)。甲子園球場建設当時の阪神電気鉄道・代表取締役だ。

甲子園球場は、三崎がひとりで建設した。そうまでいわれる創設者が、自分が期待していたものとは違うと断言したわけだ。

オープン当時、甲子園球場の外野フェンスは、今とは違って一直線だった。球場全体が三角おにぎりのようなかたちをしていた。まっすぐな直線の外野フェンスに、フットボールのコートの長辺を合わせる。

最初から、フットボールができるように設計されていた。だから、ラグビーの試合が行われたのだ。

外野にフットボールコートが描かれているオープン当時の図面
(筆者蔵)

三崎の日記によれば、球場オープン翌年の大正十四(1925)年二月十一日。甲子園球場で東西対抗ラグビーを観戦したとある。そのときの言葉だろう。

では、三崎が甲子園球場の外野でやってほしかったスポーツとは、ラグビーではなくて何だったのか。それは、アメリカンフットボールだったのである。

三崎が描いた同級生の野球チーム
(三崎家藏)

三崎は、慶應三(1867)年七月二十三日。兵庫県黒井村に生まれた。明治十九(1886)年、十九歳のときに、単身日本を飛び出し、アメリカ・サンフランシスコに向かった。

住み込みのアルバイトをしながら語学学校に通い、苦労の末、名門高校・ボーイズハイスクールに入学できた。そして勉学に励むうち、同級生たちが熱狂するスポーツと出会った。三崎は感動し、同級生たちの楽しむ様子をスケッチした。

その絵が今も、三崎家に残されている。一枚は三人の野球選手。ボーイズハイスクール(BHS)ナインとある。そしてもう一枚は、フットボールと題したアメリカンフットボールの絵だ。

三崎が描いたフットボール
(三崎家藏)

絵が描かれたのは、明治24(1891)年頃である。当時日本ではまだ、「野球」という和訳が誕生していない。

一方のアメリカのフットボールも、ラグビーから進化し、アメリカ独自のルールがようやく定まって人気が爆発している時期だ。

試合の様子が上段に、試合後が下段に描かれている。すでに、ひざ下へのタックルが公認されていたから、激しいスポーツであることを三崎も感じたのだろう。試合後に怪我人続出と風刺画のように描いている。

パデュー大学の同窓生たちと
(三崎家藏)

三崎は、野球とアメリカンフットボールに出会い、日本でもきっと人気が出ると思った。

そして、背が小さい日本人が世界で活躍するには、まずは体格、体力を鍛えるべきだと、留学中の体験から痛感していた。大好きになった楽しいアメリカン・スポーツを、日本の将来のために日本で普及させようと思い立つ。

明治二十四(1891)年、三崎はスタンフォード大学一期生となる。そして一年後、パデュー大学の三年生に飛び級で転学。明治二十七(1894)年、アメリカの大学を三年間で卒業して日本に帰ってくる。

現在の甲子園駅付近を走る阪神電車
(阪神電気鉄道)

世界最先端の電気工学を学んだ三崎は、明治三十二(1899)年、大阪と神戸の間に電気鉄道を敷こうという会社にスカウトされる。

その会社で鉄道建設の総責任者となった三崎は、明治三十八(1905)年、日本初の都市間高速電気鉄道・阪神電気鉄道を見事に開通させるのであった。