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chuck-millsIn Loving Memory of Coach Chuck Mills チャック・ミルズ トリビュート

Chuck Mills December 1, 1928 – January 18, 2021
あなたが教えてくれたすべてを、忘れない

チャック・ミルズ氏 1月18日(現地時間)逝去 92歳

技術指導や指導者育成などで日本のアメリカンフットボールの発展に大きく貢献し、「日本の近代フットボールの父」とも呼ばれるチャック・ミルズ氏が、今年1月、92歳で死去した。

その功績をたたえ、学生の年間最優秀選手に贈られる賞は「ミルズ杯」と冠される。

“ 私はみなさんに深く感謝し、永遠に愛しています"

ミルズ氏は死の直前、手紙にこうしたためた。1枚の紙にフットボール関係者や教え子、そしてフットボールそのものへの深い愛がつづられている。

手紙は、今年3月、ミルズ氏と生前交のあった人が参列した「オンライン葬儀」上で公開された。

日本からは関西学院大の元監督で日本学生アメリカンフットボール協会の伊角富三理事長らが参加し、追悼の意を示すとともに、日本アメフトへの多大な貢献に対し深い謝辞を述べた。

伊角理事長は「チャックさんは教え子たちを子どものように接しておられた。手紙を読んでそのことを改めて感じた」と強調する。

“ どうかチームメートとこれからも仲良く連絡を取り合うようにしてください。
あなた方には特別な絆があります

“ 自分の人生の素晴らしい出来事に目を向けてください。
人生の煩わしさに気を取られて、自分が持っている恵みか目をそらさないでください。
人を愛し、愛されてください"

ミルズ氏がアメフトを通じて感じたこと、教訓などが記されている。現在の学生フットボーラーにとっても、人生の指針となる「金言」になるだろう。

チャック・ミルズ氏が生前最後に教え子に送った手紙

関連リンク:
甲子園ボウルオフィシャルサイト〜チャックミルズ杯について〜 
https://www.koshienbowl.jp/2021/history/chuck/


甲子園ボウルオフィシャルサイト〜甲子園ボウルの父、二人のアナザーストーリー
https://www.koshienbowl.jp/2021/news/800/

甲子園ボウルオフィシャルサイト〜チャックミルズトリビュート〜

https://www.koshienbowl.jp/2021/news/839/


チャック・ミルズ氏 追悼コラム

TEXTED By 永塚和志

チャック・ミルズ氏の晩年、様々な機会で故人とも懇意で最も取材を行ってくれたフリージャーナリストの永塚和志氏からミルズ氏との思い出を寄稿頂いたのでこちらに掲載させていただきます。

すでに90歳手前だった“チャックさん”だったが、少年のような笑顔をこちらに向けてきた。

「もし僕がその手紙に返事を出してみようと思っていなければ、"あんな出来事”もなかったんだ」

甲子園ボウルの第70回大会(2015年)で来日したチャックさんに取材をした際、嬉しそうにそう話してくれた。

今年の1月18日、チャック・ミルズ氏が他界した。92歳だった。

“日本の近代フットボールの父”とも呼ばれる。大学の年間最優秀選手賞には“チャック・ミルズ杯”と名前が冠されている。

チャックさん訃報に接し、関係者は当然、悲しんだ。

悲しんだのと同時に、多くの人たちが彼の日本のフットボール界への多大なる貢献を改めて振り返り、噛み締めたはずだ。

言うまでもなく、電子メールもオンライン会議システムもない半世紀前だ。“あんな出来事”はチャックさんが送った手紙から始まった。

1970年。当時、ユタ州立大のヘッドコーチでチャックさんは米国国務省の要請でグアムと横須賀の基地でフットボールクリニックを開いた。

その際、NFLサンフランシスコ・フォーティーナイナーズのアシスタントでチャックさんよりも前から日本のフットボール界と関係のあったマイク・ギディング氏からもしクリニックの後に大阪方面へ立ち寄るようであれば、関西学院大の武田建氏に会うといい、という助言をもらった。

チャックさんは開催中だった万博を訪れるために来阪するが、あまりの来訪者の波に疲れ果ててしまい、頭の中にあった武田氏との面会は実現しなかった。

しかし、後にそのことを気に病んだチャックさんは、紙とペンを取った。会えずに申し訳なかった、と武田氏に伝えるために手紙を出した。

海の向こうからの思いがけない手紙に驚き、同時に感激を覚えた武田氏は、返信で「日本に米国の大学チームを呼んで試合を行うことが私の夢です」という旨の想いを記した。

その話にチャックさんは「乗った」。71年、彼の指揮するユタ州立大チームを来日させ、東京・国立競技場で全日本チームと、そして甲子園で全日本大学オールスターチームと対戦したのだった。

結論から話したが実際には、ユタ州立大の来日には高い壁があった。NCAA(全米大学体育協会)が同大に対して海外への渡航を許可しなかったのだ。

ところが、チャックさんたちには運があった。時の米国大統領はリチャード・ニクソン。大のフットボール好きで、チャックさんによれば、ニクソンが同大の来日を許可するようにと働きかける書簡をNCAAに送り、これが“あんな出来事”へとつながった。

武田氏はユタ州立大一行を羽田空港へと出迎えに赴いたが、タラップから降りてくるチャックさんの手にはニクソンがNCAAへと送った書簡があったという(“ウォータゲート事件”で失脚したニクソンの歴史的評価は総じて低いが、チャックさんは来日を許可してくれた彼が「好きだ」と顔をくしゃくしゃにしながら笑ってそう言った)。

こうして、ユタ州立大と全日本と全本大学オールスターとの試合が実った。当時の日本のフットボールには足首等を保護するためのテーピングというものすらなかったというから、同じ競技をしているとは言え、本場・米国とは質や環境が格段に違っていたようだ。

だが、この71年の出来事が日本のフットボールの進化速度を一気に早めることに寄与した。関わった人たちが口々にそう言う。

別競技になるが、男子バスケットボールの元日本代表で身長230cmの岡山恭崇さんが81年にNBAゴールデンステイト・ウォリアーズにドラフト(8巡指名)を受けながらこれを辞退している。彼がNBAの選手などを雑誌等で目にしたことはあっても、試合の映像を観たことすらなく、あまりに判断材料がなかったからだったというのがひとつの理由だったようだ。

70年代の日本のフットボール関係者も、NFLや米国の試合の映像などおそらく観たことなどなかったはずだ。

しかし、日本から出向かずに"本場”が来てくれた。ユタ州立大の来日を契機に、本場のフットボールに通ずるドアが開いた。

チャックさんは73年と74年にもウェイクフォレスト大チームのHCとして再来日を果たしているが、関西学院などのコーチたちがチャックさんを頼って米国へコーチ留学をしている。その中には前・関西学生アメリカンフットボール連盟理事長の伊角富三氏や、関西学院大を12度の甲子園ボウル優勝に導いた鳥内秀晃氏らも含まれている。

元日本アメリカンフットボール協会理事長で、ユタ州立大来日にも尽力した古川明さんは、’71年の“あんな出来事”がなければ日本のフットボールフットボールは、20年は遅れていたのではないかと話していた。

伊角さんは「20年? もっと遅れてたんとちゃうか」と言っていた。

実際のところはどうだったかなど誰にもわからないが、しかし、チャックさんがこの世にいる間に聞いておけばよかった、とは思う。

あなたがもたらした“あんな出来事”がどれほど日本のフットボールの発展を早めたと思いますか、という問いをだ。

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