甲子園ボウル誕生(第三回)
武庫川女子大学名誉教授
三崎省三の想い。甲子園球場は100年前からアメフトの聖地でもあった。
野球という日本語が生まれる前の話、留学先の米国でベースボールとアメリカンフットボールに触れた三崎はこの2競技が必ず将来の日本人を豊かにするスポーツとなることを確信。後に阪神電鉄の専務となると、その2競技が開催できる球場建設を指揮し、そして完成したのが甲子園球場だ。
外野席は100mを直線にとり、グラウンドを3角形に形どったのは野球のみならず、アメリカンフットボールやラグビー、サッカーなどの競技でも利用出来るフィールドを作るという三崎の思いが込められた形状であり、完成した球場は未来への夢が詰まった、まさに“Field of Dreams”であった。
豊中グラウンドで始まり、第3回から鳴尾球場で開催されていた全国高校野球選手権大会(当時は全国中等学校優勝野球大会)が、人気の高まりにより観客を収容できなくなり、甲子園球場が誕生。第10回大会から甲子園球場が会場となり、今に繋がる野球の聖地となっていく。
そして同時に「日本フートボール優勝大会」の名で同じく豊中グラウンドで生まれたサッカー、ラグビーの選手権も甲子園球場で開催されていた事実はあまり知られてはいないだろう。今の全国高校ラグビーフットボール大会、サッカー選手権大会に引き継がれる大会が1925年から1928年まで甲子園球場で行われていたのだ。
甲子園球場でのアメリカンフットボールの試合が実現するのは戦後のこと。
1929年11月、球場の南に新設された甲子園南グラウンドにて関西における初のアメリカンフットボールの公式戦が行われ、甲子園の地は関西のアメフト発祥の地として知られるようになる。しかし、三崎が夢見た甲子園球場でのアメリカンフットボールの試合の実現にはそこから暫くの時間を要する事となる。
戦後、米国に接収された甲子園球場は米軍の体育学校となり、そこでは占領軍による野球やアメフトの試合が盛んに行われたという。そんな中、当時の毎日新聞社の大阪編集局長(後の社長)であった本田親男の「これから我が社はアメリカンフットボールに力を入れねばならない」という大号令の元、毎日新聞でアメリカンフットボールの大会新設の計画が立ち上がる。託されたのは当時、毎日新聞の運動記者であった葉室鐵夫。元ベルリン五輪200m平泳ぎの金メダリストである葉室は会場を選定するにあたり、ボウル(お椀型)形状のスタンドを持つ甲子園球場でのゲーム開催にこだわったという。
「フジヤマのトビウオ」と呼ばれる古橋広之進を産んだ甲子園水上競技場が球場の西側に完成したのが1937年。その前年のベルリン五輪で金メダルに輝いた葉室も又、1940年に世界ランキング1位で引退するまでの現役期間、この甲子園の地で研鑽を積んだ一人だ。
水泳競技を通じて幾度も米国遠征を経験した彼は、現地で見たアメリカのカレッジのボウルゲームの風景を甲子園球場に重ねた。彼のこだわりが三崎の“甲子園球場をアメフトの聖地に”という夢を実現させることになる。
Field of Dreams
歴史を紐解いてみれば、接収が解かれた甲子園球場で日本初のボウルゲームが行われ、その後、甲子園が学生アメフトの聖地となるのは必然だったとも言える。
三崎の想い、本田の熱意、葉室の執念が、アメリカンフットボールと甲子園球場を強く結びつけた。
先人たちのスポーツにかけた夢が甲子園球場のフィールドには今も宿っている。
アメリカンフットボールの聖地としてこれからも学生たちの熱いプレーがここに新しい歴史を刻むことを願いつつ。
甲子園球場。100周年おめでとう。