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繊細にして豪快、そして大胆。日本を代表するQBとして一時代を気づいた東海辰也氏。現在は、アサヒビールの国際経営企画部チーフプロデューサーとして、世界を駆けるビジネスマンとして活躍中だ。
その東海氏に京都大ギャングスターズ時代や、甲子園ボウルの想い出を中心にお話をお聞きした。
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−−まず東海さんがアメリカンフットボールを始めたきっかけを教えてください?
東海 浪人している時にね、ちょうど優勝したのが京大。京大に行ってフットボールやりたいってずっと言っていたやつが同じ寮にいたのですよ。僕は初めてフットボールっていう存在をその時に知った。また京大が優勝したってことで、京都全体がものすごく沸いていたわけです。
僕はアメリカンフットボールを知らなかった。でも一応そういう知識はあって、入学後にフットボール部から勧誘されたとき、じゃあやってみようか、と。
−−最初からQBではなかったですよね。
東海 ずっと叫んでいた。QBやらしてくれって。だって黙っていたらラインなるのだもん(笑)。
当時の京大は、1年生は練習前に毎日自己紹介するのです。覚えてもらうために。当時の京大は、1年生は練習に何日間に1回だけ来てもいい、というシステムだったので、練習に来る1年生が日替わりで変わったのですよ。どうしても覚えられないからってことで、1年生はとりあえず練習前に自己紹介しろって(笑)。その時に僕は最後にQBやらしてください!と、1ヶ月間叫び続けました(爆)。
−−どこのポジションから始めたのですか?
東海 大学入ってすぐのポジションはDL。もちろんそうですよね、こんな身体やったから。で、その次にOLやってみろって(笑)。キッキングゲームのブロッカーもやったしね。その時でもQBやらせてくれ、QBやらせてくれって、ずっと水野さん(京都大監督)に言っていたのだけど、やらせてくれない訳よね。とりあえずボールは投げさせてくれるけどね、やめさせないようにね。(爆)
その後、ボール持つポジションやらせてみようかってことになって、TEをやった。どんどんラインのほうからバックスのほうに近づいてきたと(笑)。
そのうち今度はRBをやれといわれて、でかいし、ブロック力も一応ラインで鍛えている。脚もそこそこ早かったから、RBずっとやることになって練習していたところで、ちょうど偶然に、僕の上の人がみんな怪我をして、QBがいなくなっちゃったわけ。
練習試合のスケジュールが決まっていて、1年生から急遽作れという話になって、その時に3人候補がいて、3人の中に入ったのですよ。あいつはいつも言っていたからやらせろと(笑)。
これがまた運良く一人やめちゃったの。あともう一人はまた怪我をしそうになっちゃって、しょうがないから俺に出てみろって(笑)。そこからですよ、QBというポジションのスタートは。
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これには後日談がある。実は当時の京都大・水野監督は、周囲の関係者に「ものすごくいい選手が入ってきた、日本一が狙える」と話していた。その素材をいかに育てるか。周囲から様々な助言もあり、最初は人と当たるポジションを経験させた。基礎的な体力作りに取り組んだと云うわけだ。
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−−それでようやくQBにたどり着いたと。
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