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第61回アメリカンフットボール東西大学王座決定戦 甲子園ボウル
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第62回毎日甲子園ボウル
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過去の名勝負 インタビュー
汝不死鳥たれ!

梶山 龍誠(かじやま りゅうせい)
日本大学WR(87〜90年)甲子園ボウル4年連続出場第45回大会ミルズ杯受賞
現在はアサヒビールシルバースターに所属。
大阪府豊中市出身 37歳 (株)ビケンテクノ副社長

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 京大の怪物QB東海辰弥が卒業した翌年から日大の甲子園3連覇(ライスボウルも史上初の3連覇)が始まる。いわゆる日大「最後」の黄金期である。<第43回大会/88年〜第45回大会/90年>
 WR梶山は、高い技術と優れた身体能力、それに加えて強靱な精神力で、近年の日大黄金期を代表するレシーバーである。
 89年、90年と2年連続の関東学生リーディングレシーバーを獲得、90年には、レシーバーとしては最初のミルズ杯を受賞した。球際の強さと絶妙のポジションニング、ここ一番で発揮する驚異的な集中力で、当時のマスコミから「ゴッドハンド」と呼ばれた。
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【腐ったスイカが引き留めたゴッドハンド】

−−まず日大に入学した動機というのはなんだったのでしょう?

 高校時代(追手門高校)は、ほとんど秋のシーズン1回戦で負けていたような学校でしたが、やっぱり自分は1番になりたかったのですね。自分がやっているスポーツではトッププレーヤーになりたいし、オールジャパンにも入りたい。そう考えたときに一番手っ取り早いのは、そういう状況が整っていて、そのチームでがんばればそうなれるところに入ろうと、それで日大に入学した。
 そこのレギュラーになったら、ジャパンのレギュラーだし、そこでがんばって優勝できたら日本一。誰も文句言わないだろうと。周りからしてみたら無謀だと思われるようなことだったけれども、まずそこに行こうと決めたわけです。

−−実際に入部した時の感想はどうでしたか?

 入部当時は練習できなかった、させてもらえない。基礎的な練習はやる、でも、肝心なチームプレーになったら、1軍と2軍しか出来ないわけですよ。練習は試合形式で進むから練習には参加できない。1年生で見込みのある選手だけがそこに加わるわけ。でもそれは限られていて、何十人もの順番があるのです。
 だからチャンスを与えてもらうために、わずかな練習でも先輩の技術を盗み取るしかない。それで夏ぐらいにはもう無理かなと思って、やめようかと思ったぐらいでした。

−−それでもやめずに続いたわけですよね。

 当時は合宿所で寝泊まりしていましたから、夏休みになると何日か地元に帰してくれるのですね。一度大阪に戻って合宿所に帰ってきたときに、ベッドがスイカで埋まっていた。チームにスイカの差し入れがあって置き場所がなかったから、留守の間、僕のベッドが空いていたのでそこに置いていた、スイカを30個ぐらい。
 僕が帰ったから「どけるわ、ゴメンな」って、動かしたときにスイカの下の方が腐っていて、スイカがベッドの上で爆発した。
 腐ったスイカって、それはもの凄い異臭でね・・・。しばらく自分のベッドに近寄れないわけですよ。これって、ものすごく理不尽な話だと思うでしょ。人権もへったくれもない(笑)。いまの若い子だったら、キレまくって帰るとこですよね。


 僕はそのときにね、なんのためにここに来たのかと考えた。家族とも離ればなれになるし、アルバイトもできないから全面的に金銭的な支援をしてもらって、それで入部しても雑用ばっかりだと。プレーどころか、技術の向上なんてほど遠くて、誰も教えてくれない。もうただ淡々とすぎる日々に疑問を持ち始めた時期にそういう事件がありました。
 その時に、結構ふっきれてしまった。こんなことくらいでケツわってしまったら、もうどこにも帰るところがない。ここで1軍になって、オールジャパンになって、日本一になるために来たのだ、と。
 それで、出来ることから始めよう、先輩にいろいろ聞いたり、人よりも速く数多く走ったり、そういうことのために1日1日を大事にしようと決心したわけです。


【公式戦デビューが甲子園ボウル】

−−初めての甲子園ボウルは87年の第42回大会ですよね、当時は1年生。

 当時は明治大も強かったし、日大は甲子園優勝から遠ざかっていたわけです。僕が1年の時は、もう日大に優勝経験者がいなくなるよと言われていました。
 みんな結構あせっていましたね。前の年もQB東海率いる京大に負けて、その年の甲子園ボウルにも京大が出てきた。
 その頃、レシーバーのレギュラーメンバーが怪我したりして、シーズン深まるにつれて自分の順番があがってきて、パルサーボウル(関東学生選手権決勝/当時の名称)が終わった甲子園ボウル前には、順番が僕のところまで来たわけですよ。
 とりあえず「おまえ1軍控えに入れ」と。1軍控えは1陣と2陣に別れていて、1陣は試合に出る可能性のあるレギュラーメンバー。2陣は1軍をお世話だけするためのメンバーでした。でもそこでチャンスがあって、試合は案の定、京大がもう一方的で4Qになった時には、ほぼ負けが確定していた。その時に出ていた1軍の先輩が怪我をした。
 「つぎ誰だ。」「はい自分です」と。初めてハドルに入って、その時QBの佐藤さんが「梶山、おまえ入ってきたのか。おまえに投げてやる」と、短いショートポストのパスを投げてくれて、胸でパスを捕ってチョコッと走った。もう、それがすべての始まり。1年間のいろんな苦労とか悩みとかが凝縮された人生を変えたキープレー。ターニングポイントでしたね。

−−甲子園で初めてハドルに入るときの感想は?

 ハドルに向かいながらね。全国ネット、全国ネットって考えていた。プレーがどうとかじゃなくて、全国ネット、全国ネット、全国ネット(爆)。その時は43番つけていた。

−−その時、甲子園の印象はどうでしたか?芝の感じとか。

 津波ですよ津波。歓声もそうだし、スタンドの高さもそう、押し寄せてくる津波。フィールドに入ったときのその雰囲気。今でも鮮明に覚えている。
 それが一度プレー始まったら、佐藤さんが僕の方に向いてなにか叫んでいる顔と、あとはフィールドの中を無我夢中で走って、飛んできたボールを捕って、ただそれだけですよ。チョコっと走って、「おい、もういいぞ」って引っ込むまで、ただそれだけの2プレーか3プレーぐらい。それが最初の思い出。芝生の感覚とかぜんぜん覚えてない。

−−公式戦デビューがその甲子園だったわけですよね。

 それで偶然にも甲子園でレシーブの実績を残して、1年生でもこういう巡り合わせというか、チャンスがあるものだなってね。
 日大で交代選手が出る時は、最初に出ていた選手がもうダメな時しか出ない。QBの交代も「もうあいつはダメだから替えろ」って言われるまで、そいつが活躍している限りは、そこはそいつのポジション。それでもう1軍と2軍が入れ替わる。
 選手に順列がついていて、怪我をするとか、プレーが思わしくないとか、調子が悪かったらそいつは使ってもらえない。でも、チャンスはちゃんと与えられるわけですね、そういうシステム。それは監督が決めて、コーチが決めて、そういう秩序がちゃんとあるわけです。
 そこに対するチーム内での競争やどん欲さ、試合の時にも、ものすごい緊張感があるわけですよ。逆にそこで僕にはチャンスがあって、運良くモノにできてよかった、試合には負けたのですけどね。<第42回大会/京大41−17日大>


【試練の2年生、サムライWRの誕生】

−−2年生になって今度はレギュラーメンバーとなったわけですが。

 レギュラーメンバーに入ったけど、最初の1年間は何もしてないのに、ただポッと出で入っただけだったから、なんにもないわけですよ。ヘタクソなんです。日大のレギュラーとして試合に出続けること、その前に練習でも怪我をしないで、ミスもしないでいることの1年間って、僕には地獄のようでした。
 いままで思っていた雑用がイヤだとか、ベッドが臭いとか既に関係ない。とにかく毎日の練習の中で、いかにミスをしないで、怪我をしないで出続けて、そのポジションを死守するためにもう必死だった。
 控えメンバーというのは、後輩もいれば当然先輩もいる。どちらかといえば先輩の方が多いわけです。でもこのポジションだけは、ラッキーの棚ぼたで落ちてこようが、これだけは死んでも離さないぞ、と。それが試合だけじゃなくって、毎日の練習生活の全てがそこに集中するわけだから、試合の方がかえって楽なわけですよ。

−−常に全力で取り組んでいることが要求されるということですね。

 しかもQBが誰に代わろうが、ラインが漏れようが、自分のところに飛んできたパスをちゃんと捕って、ゲインするかタッチダウンするしかない。キャッチそのものが、本当に生きるか死ぬかぐらいのことだった、言い訳ナシです。
 だから、自分に飛んできたパスは「手にさわったら捕れ」と。あれはQBが悪いけど、レシーバーもね、っていうプレーは、レシーバーが全てペケなのですね。
 2年の時のQBの山田さんは、どちらかというとランが得意なQBでしたが、山田さんの投げるパスは、けっこうお辞儀していてね(笑)。前で落ちるパスが多いから、土を掘って捕っていた。
 どこの部分でもいいから、とにかく落とさないで確実に捕る方法と、あとは投げられた場所に、早いタイミングで敵より先に入ってちゃんとボールを確保して、まず捕れたら100点満点中90点はOKなのだから、まず捕ること。どんな格好でもいいから確実に。そういうことを自己流のなかでずっとその1年間やってきた。

−−まず自分との戦い、そしてチーム内での切磋琢磨があったわけですね。

 夏合宿を乗り越えてこんどは秋本番。日大も今年にかける。リーグ戦を通じて、自分の実力とあとは肉体の限界と、その中でフラフラになりながらでもやっていたわけですよ。それでも、もうなんとかこのまま行くぞ、と。

 最後に等々力球場でやったリーグ戦で、パスをうけた時に立教大学のLBがやって来て、もみ合って倒れた。その時に息を吸ったら苦しくなって、血が出てきた。
 胸にボールが入って前に倒れた時に胸のあばら骨が折れていたのですね。折れた時に衝撃で粘膜が切れて吐血した。ハドルをしている時に咳き込んで、「おい、梶。大丈夫か」「大丈夫ですよ」「おまえ血が出てるじゃないか」「大丈夫です」・・・。それでタイムアウトで出て、そのまま日大病院。リーグ最終戦だったし「終わったな」と。いままでがんばったけど、ここで終わったなと思った。

 病院に行ってレントゲン写真を撮って、チームは勝ったからパルサーボウルに向けて練習をしているのですけど、僕はボイラー室で隔離されていたのですよ(笑)。 
 病院の診断は「肺に影が見える」。「肺病だよ。だからおまえは隔離。練習も出るな」ってボイラー室で隔離されて、病院と隔離の生活で俺はこのまま死んでいくのかなって。
 しばらくして「どうもこれよく見たらあばら骨が折れています」と。折れた骨が、影になって写っているのだということになった。じゃ、これでまたフットボールが出来るわ、と。

 パルサーボウルの2、3日前に、「梶山一応ユニフォーム着とけよ」と、コーチに言われたけど、ずっとボイラー室で隔離されていて、練習は全然していなかった。
 慶應大との決勝は、立ち上がりから結構競った試合になった。前半終了間際に「おい、あの肺病を出せ」って監督が。「梶山行けるか?」「行けっていわれたらいつでも行きますよ」で出て行った。
 その時はQB宇田川さんが、いきなりロングパス、50ヤードぐらい。相手DBと競って「やばーっ」ってなった時に、ボールの感覚はあまりなかったけど僕の手元に入ってきて、ロングパス成功、そのままタッチダウン。帰ってきたら「梶山、おまえ行けるじゃないか、練習もしてないのに」と。

−−普通、シーズン途中で一度戦列を離れると、復帰が大変ですよね。

 それを一発プレーでなんとかもぎ取った。甲子園ボウルまでには、体力を戻して、プレー勘も戻した。
 それで甲子園球場に入ったら、観客が見えなかった。フィールドだけが浮かび上がって見えるわけ。「もう優勝するためには、これで勝たないと俺たちは終わりだ」と。

 篠竹監督はいつも甲子園ボウルの前にね、「おまえらフィールドで死んでこい。骨は拾ってやる」って必ず言ってくれるわけですよ。甲子園ボウルっていう場所は、日大の幹部が全員で握手して、塩蒔いて行くわけ。宿舎でもやるし、グラウンドでもやる。みんなそこで泣くわけです。日大では甲子園以外でのガッツポーズは御法度。でも、甲子園ボウルの時だけはガッツポーズしてもいい、って暗黙の了解がありました。
 リーグ戦とかそれまでの試合は当たり前、甲子園ボウルだけは特別。相手と死闘を繰り広げる場所。1年前の僕は全国ネットだとか、スタンドとかしか見えてなかったのが、2年目の時には、フィールドしか見えてなかった。フィールドと敵とボール。もうめちゃめちゃ集中して、試合に入ったら歓声なんかピッと消えるようなスイッチが入った。全部消えた。


「毎日甲子園ボウル50年史」より掲載

 すごく緊迫した試合だったけど、この年の甲子園ボウルは、ゴールデンドラゴンフライだったから、あんまりパスプレーがなくって、ずっとラン、ラン、ランで、ジリジリ時間を潰す。その合間にロングパスが来るわけです。それを捕って、走って、ロングゲインして、それで6年ぶりに優勝したのです。
 そこはもう歓喜の嵐。僕にとっても、つらい闘いの末、やっとここでつかんだ日本一。しかもずっとレギュラー通してね。<第43回大会/日大35−28関学>


−−そのシーズンのライスボウルでは、3つのタッチダウンをしていますね。

 ライスボウルでは、新しい自分が生まれていて最初から全開。前半で2本のタッチダウン。これは、もう気持ちが楽だから、どんなボールが飛んできても平気なわけです。プレッシャーなし。フットボールが楽しくなった。その経験が今もずっとあるから試合が楽しくてしょうがない。 
 後半開始早々にQB須永が出てきて、須永がロングパス投げたのをタッチダウンした写真が写真週刊誌に出た。マラソンとラグビーと、ライスボウルと、そこに『私のハートをキャッチして』って見出しつきで出た。それで「俺の狙った世界は間違ってなかったな」と確信した(爆)。

 自分の努力したことが正解だったと。その成功体験が自分に出来たから、そこからフィールドが変わってしまったわけですよ。闘う自分の精神力っていうか、監督にも叱咤され続けて、それが掴めた。それが自信。
 それからっていうものは、フットボールの試合って言うのは、何て楽しいモンなんだっていう気持ちで活躍できた。

−−つまり、2年目の甲子園ボウルで選手としての殻を・・・。

 破った。僕はこのときにブレイクスルーしました。


【3年目、そして最終学年を迎えて】

−−3年目以降はどうでしたか?


「毎日甲子園ボウル50年史」より掲載

 3年生の時はエースQBが宇田川さん。結構楽勝でリーグ戦も乗り越えて、パルサーボウルも圧勝。その頃は、前の年から取り組んでいたTフォーメーションで、リーグ戦を全て乗り切った。
 ショットガンを封印したまま甲子園にまで来て、いきなりショットガンしたら、バッコバコ決まる。もう「早よ、ショットガンをやらしてくれ」って(笑)。終盤にショットガンを全開にして圧勝した。
<第44回大会/日大45−14関学>

 3年の時は楽しい思い出しかない。2年間の苦労があって、3年で解き放たれて優勝。
 ここでちょっと記憶に残っているのは、3年の時のラインメンで、もう最強でした。4年生の柏木さん、金子さん、箭筈さん、塩島さん、それと安部奈知、安部は当時2年生だったかな。
 この4年生のラインメンがもの凄くて、宇田川さんをパスプロしながら「梶山あいている、梶山あいている」って、ラインメンがどこのレシーバーが空いているのか、QBに指示をしながらパスプロしている、っていうのが記憶に残っていますね。

−−それで、いよいよ4年生。最終学年となるわけですが。

 4年になった時にこのライン主力メンバーが、ごそっと抜けるわけですよ。僕らバックス陣は、けっこう若いうちから出ていた連中が残ったけど、ラインは若い選手とかに代わって大変だった。ディフェンスも戦力が落ちているし、自分たちの代に優勝するためにはどうしようかと、自分も幹部になっているし。
 結局バックス陣、レシーバーのタレントがどんどんリードしていって、ラインを引っ張っていくしかなかった、どんなにマークされようが何であろうが、とにかく捕って、捕って、捕りまくると。リーグ戦もけっこう厳しい試合が多くて、もうボロボロで甲子園に辿りついた。
 甲子園での相手は京大、それは強かったですよ。とにかく「QBが痛んでいるから潰せー!」って、ブリッツ入れられて、いきなりQB須永がタックルされて壊れた。


「毎日甲子園ボウル50年史」より掲載

 僕の方に、ディフェンスが反応してくるから、最初何本か捕って、あとはオトリで中をあけて小林孝至が捕る。このパターンでずっといっていたわけですね。
 結局なんとか優勝できて、ミルズ杯ももらった。何で僕になったかというとQBが2人いたから(笑)。どっちも活躍しているし、QBが2人いるときはレシーバーが獲れるわけですよね。とにかく僕らの代で優勝できて、3連覇したっていうのが良かったですね。<第45回大会/日大34−7京大>


【篠竹フェニックスが目指したもの】

−−梶山さんが優勝した年以降、日大はチームの雰囲気が変わりましたよね

 その辺は僕らも感じています。僕は4年生の春からは、下級生にはとくに厳しくあたった。僕はけっこうストイックな方だから、今度は下を育てるためにね、自分たちが教えられたように厳しくしようとした時、その頃から最近の傾向があったわけですね。若い部員達が「もう、やってられるか」ってね。
 世相が変わってきて、結局それを知っているけど出来ない。それは伝統世代のスパルタ指導。とにかく有無を言わさずに、全てを犠牲にして力を出し切って闘う、という本当の理念って言うか、それが薄れていったことによって、それを実践できるプレーヤーが日大にいなくなってしまった。

−−それは、世代による考え方の変化でしょうか。

 日大の潜在的な力っていうのが、残っている時は結構いい線いくけど、段々薄れていって消えてなくなった。僕が入った時に感じた、ここは有無を言わさずにとにかく上から言われたことには絶対服従で、自分の技や精神力を磨くしかない、自分を高めていく以外に勝つ道はないのだと信じてやっていくっていう、その文化が薄れていって、なくなってから日大は優勝できなくなった。
 外部の人やあるいは他のチームから見てみたら、信じられないことだろうけど、篠竹監督というカリスマを中心にして、とにかく勝つことだけに集中して全てを犠牲にするっていう気持ちが次第に失われていった。
 そこにやっぱり隙が出てきて、甘えになって、プレーが煩雑になり、緊張感が失われて、本来日大が持っていた、何て言うか不思議な力がなくなってしまった。
 僕は思うのですが、日大フェニックスの理念というのは「犠牲・協同・闘争の精神」、まさにそれでしょう。


第34回大会優勝時の篠竹前監督
「毎日甲子園ボウル50年史」より掲載

 日大のフィールドで篠竹監督がいたフェニックスっていうところは、僕のように何にも訳もわからずに入ってきた者が、それでもオールジャパンになっている。そういうフットボールだけじゃなくて、いわゆる精神を鍛える環境があったってことです。それも短期間でね。
 全ての邪念を振り払って1つのことに集中する。そうすることによって、結果的に常識のなかで考えられていることを越えたところで実現できるから、すごく楽しいし、本当に楽しめる。日大のルールっていうのは、出せる力を100%最初から出し切って、出し切って、出し切って、最初から全開で失敗したヤツは「おまえもう下がれ」だった。

−−言い訳が出来ない。環境のせいにしたり、理由をすり替えたりとか。

 うん、それしかないのですよ。結局の弱いところは。とにかく生きるか死ぬかで、もうそこを抜け出したり、逃げ出したりしたらもう行くところなしで、そこで活躍するしか自分の道はないのだから、ハラが決まるわけですよね。
 だからそういう命がけのプレーは観客から見ていても絶対に判るし、最近のフットボールがあまり面白くないって言うのは、はっきりいってそこまでの世界の闘いじゃないから。当時の対戦メンバーに聞いたら、日大と闘った時の雰囲気っていうのはもう全然違う、と。
 だからそれが、当時のファン、大勢のお客さんが集まってきた理由だろうし、そういうものを各チームで創り出しているようなゲームが、甲子園では行われていただけの話。

−−それがあの甲子園独特の雰囲気を創っていた

 甲子園ボウルってね、いま思い出しても甲子園に来ると空気がぜんぜん違うのですよ。澄み渡った感じで、それがまた緊張感を生んで、自然に涙が溢れてくる。 


【ラストサムライ達の群像】

−−武道にも通じるサムライの感性ですね。

 相手がどうとかというよりも、自分たちの限界を超える。潜在能力を全部はき出すっていう精神だから、鍛えれば鍛えるほど強くなってくるということだと思うのですよ。
 篠竹監督の場合は、結果的にこうじゃないといけないとかあんまりない。カタチから入るのでもなく、環境から入るのでもなく、システムでもなく、ただサムライを育てるために、その人間の人格とか、あるいは限界を超えるとか、何かに命をかける気持ちを創る。
 「おまえは命をかけているのか、死ぬ気でやっているのか」ってよく言われました。それは期待でもあるのだけど、常にプレッシャーを徹底的にかけて、極限状態で発揮させる教育方針だったのですね。
 フットボールを通して結果的には人として鍛える、こころの修行をさせていた。自分はフットボールに命をかけていて、選手もそこのレベルまでついてこいと。
 そういう精神を徹底的に実践して、私生活でも、フィールド上でもやってこられた監督ですよね。じゃないとああいうチームって出来ないです。

−−でも符合しますね。ちょうど90年初め頃でした。学校教育が本格的にゆとり教育へとシフトした時代。同時に社会全般の風潮としても、スパルタ指導とか体罰教育を否定しはじめたころですから。

 結果的に、本当にそれを忠実にやっていた空間があったわけですが、それすらなくなってしまったことっていうのは、フットボール界に与えた影響は大きいでしょうね。

 環境や設備というのはお金さえ出せば出来る話。でも人を、そういう人間を育てるっていうのは時間がかかりますから、一度途絶えたら難しいです。社会人になっても、それを知っている選手と全然そうじゃない選手っていうのは、やっぱり違いますよ。でも、そういうことは今だから言えるけど。当時にいまから戻れと言われたらイヤですよ。ノーサンキューですよ(笑)。

−−梶山さんにとって篠竹監督というのはどんな存在ですか

 絶対的な恩師ですよ恩師。やっぱり自分の人間としてのベースを監督に鍛えられた。それは、監督がこう言っていたからとか、監督がこういう風に教えてくれたからとかじゃなくて、身にしみているから無意識ですね。フットボールする時はもちろん、私生活のなかでもそうだし、そのぐらい染みついていますよね。
 だからウチの親父なんかも、監督のお陰でいまのおまえがあるわけだから、ということはいつも言いますよね。
 当時の日大は甲子園にいつも出ていたけれども、勝てていなかったってことがあるにせよ、あそこにいったら何かが違う、というのはあったじゃないですか。
 だからその中で本当に何があったかっていうことはみんな知らないことですけれども、そこにいた僕にしろ、須永にしろね、他の選手にしろ、一線で活躍している日大の選手を見てくれれば、どういう世界だったかっていうのはわかりますよね。

−−国内フットボール界をはじめ、各方面で皆さんご活躍ですよね。

 いろいろな人からいまの選手の話とかを聞くとですね、どっちかいうと教師や親に対しても、監督やコーチに対しても、要するに目上の人に対して、なんかこう自分が対等なのですよね。「そんなこと訊いてない、やってらんない、冗談じゃねえ」とか。まず根本的にそこが出来てないから、我慢したり辛抱したりすることが出来ないわけですよ。
 だから逆に今回の甲子園ボウルで、篠竹監督の追悼セレモニーを行ってもらいましたが、当時のあの人は何を残して、いまのフットボールに対してどんなメッセージが必要なのかって言えば、僕はそこだと思うのです。
 「サムライの精神をもう一度呼び覚ませ」っていうか、日本人なら誰しもが持っているものですからね。僕なんか、あのたったの2年で会得しただけのことですから。2年ぐらい我慢するのは楽勝でしょう。長い人生の中ではね。
 そんなことをやって何の得になるのとか、代償を求めるのじゃなく、四の五の言わずにとにかくやれ、と。そういう没頭する時間とか、本当に真っ白になるくらいその道をつき詰めるとか、そういったものが今は欠けています、あるいは求められているのでしょう。

−−そういう精神は社会に出てからも大切なことですね


 僕が社会人として生活していて役立っているのは、相手と話をしている時に、それこそ人を見抜く、じゃないですけど、この人はこんな人と違うのかなって、割と判りますよ。嘘をついている人かどうなのか、ホンマに命がけやっている人なのか、いいかげんな人なのかっていうのは、一緒にいる時間があると大体わかります。
 だって僕らのその監督と一緒にいる中で、鍛えられてきたことは、次は何をしないといけないかってことじゃないですか。試合中も日常生活でも。そのタイミングが遅れたりしたら「ばかやろう!」って罵声が飛ぶ。
 「おいっ、アレを持ってこい!」。「アレ」って言われたら「アレ」を持って来ないといけないわけですよ。そこには何が必要かっていったら、いまで言う「ホスピタリティ」というヤツですよね。周囲の状況から相手のニーズを先に察知をして、いくつかの選択肢の中からそれをチョイスして、っていうことの繰り返しじゃないですか。
 その辺をやっぱり鍛えられたっていうか身についているから、そういうところは、ビジネスの世界でもすごく役立ちますね。

 でも監督は理屈としてこれを意識してやっておられたわけじゃない、要は何においても命がけでね自分の出せる力を出す、ということです。
 そういう風になると、どんな所でも生きていける。いわゆる裸になって真正面で向き合って話が出来る人が、自分の周囲にどんどん集まって来てくれるようになる。そういう人間関係というか人生の仲間が、いま僕の周りに居てくれて嬉しいな、という風にも思えますね。

【ビケンテクノ大阪本社にて/聞き手;畠中隆好】

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