![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
2007.12.11 |
![]() |
<試合の見どころ>歴史編 |
![]() (写真左) 日本大学 #21 RB 金雄一 4年/(写真右) 関西学院大学 #9 QB 三原雄太 4年 |
||
「ここでしか返せない借りがある」。
日大は日系二世の竹本監督が、リクルートから手がけ育て上げたメンバーが最終学年を迎え、闘将として名高い篠竹監督は、この試合にE(エンド)で出場している。 下馬評は五分五分で始まったこの試合。立ち上がりから日大が主導権を握り、4Qに入った時点では、26−13とダブルスコアでリード。しかしここから関学が猛追を見せる。 最後は残り時間40数秒、自陣18ヤードからのオフェンスを、QB鈴木からWR西村への起死回生のロングパスで、関学が同点引き分けに持ち込むというスリリングなゲームを展開、劇的なキャッチアップ劇で幕を閉じた。 「青と赤」伝統の一戦、第1ラウンド。このゲームはいまに語り継がれ、両雄の甲子園対決の系譜として位置づけられる。 その後、日大は篠竹監督指導の元、難攻不落の牙城として関東学生リーグ、甲子園ボウルに君臨する。 前述の初出場から1990年まで、甲子園ボウルに29回出場、20回優勝。そのうち関学との対戦成績は、16勝6敗2分と圧倒的。関学にとって日大は、関西を制した先に立ちはだかる絶対的な「赤い壁」だったのだ。 今季の日大は、内田監督がきめ細やかなリクルート活動を通じて集めてきた選手が中心となっている。現在4年生となる主軸メンバーが入部してきた2004年に、内田監督は手応えを掴んだという。「2006年に甲子園に出て初年度は経験、2007年に日本一を獲る」ことを目標とした。昨年の誤差があるとはいえ、今年は4ヶ年計画が実を結ぶ年にあたる。 かつての日大と根本的に違う点は、「戦術はコーチに一任している」(内田監督)こと。よりきめ細かな戦術が要求される近代フットボールでは、コーチングの分業化は不可欠だ。オールドファンはよくご存じの篠竹前監督による専制体制は、日大のチームカラーでもあったが、同時にスカウティングや、スポッターなど情報戦が鍵を握る最近の傾向に対応するには、限界があった。 いまの日大は、第1回W杯日本代表QBの須永氏をはじめ、卒業後も日本のフットボールシーンを支えてきた経験豊富なスタッフ陣が、選手の指導に当たっている。 「やっと来おったか」と、想いが迸るように関学・鳥内監督は感想を話した。 かつての日大の強さを一番肌で知っているのはこの人であろう。日大が関学と並ぶ甲子園5連覇を達成した最初の4年間(78年〜81年)を選手(DB/K)としてフィールドで受け止めた。 「とにかくあの強い日大と闘えるようにしたい。選手達に勝たしてやりたい。そういう想いで指導者を目指した」(鳥内監督)。 1992年に監督に就任以来、日大とは甲子園初対決となる。誰よりもこの対戦を待ち望んでいたのは、他ならぬ監督自身なのかも知れない。 関係者、選手、OB、なによりも数多くのフットボールファンの様々な想いが凝縮された伝統の一戦、第62回大会。 奇しくも、甲子園の特設スタンドではおそらく収容しきれなかったであろう日大の応援席も、長居陸上競技場という偶然のロケーションが解決した。 この日、日本のフットボール史に新たな1ページが加わる。 |
記事:畠中隆好 |
![]() |
![]() |