甲子園球場は1945年8月30日から1947年1月10日まで米軍に接収されており、その解除後に選抜中等野球が行われた。1947年(昭和22年)1月、連合軍は3月30日からの選抜中等野球大会(現センバツ高校野球大会・毎日新聞社主催)を甲子園球場で行うことを許可し、この球場を再び日本人が使用できるようになった。
この頃、大阪毎日新聞社記者の葉室鐵夫(1936年のベルリン五輪200m平泳ぎ金メダリスト・日本大OB、2005年10月30日逝去)は、甲子園ボウルの立案者である編集局長本田親男(のち社長)の指示でアメリカンフットボールの試合会場を捜していた。
東西大学王座決定戦となる試合を計画、対戦カードは、関西から前年リーグ戦優勝の同志社大、関東からはやはり復活したばかりの昨秋のリーグ優勝校・慶応大を予定。この両校は戦前から定期戦を行っていたため、大学間の連絡もスムーズだった。
毎日新聞社に先立ち、同志社大OBの三浦清が上京、慶応大と交渉するなど熱心に活動し、これに毎日新聞社が協力することとなり、葉室にそのマネージメントが回ってきた。
葉室はアメリカの大学アメリカンフットボールのビッグゲームに付けられる「ボウル・ゲーム」という言葉にこだわり、「ボウル」すなわち、おわん型のスタジアムでの試合実現を目指した。
まず阪急電鉄に西宮球場での開催を申し込んだが、阪急サイドからは西宮球技場での開催を勧められた。そこで交渉を甲子園球場に絞った。スタジアムの型へのこだわりによって生まれたのが、「甲子園ボウル」ということになる。そのころ甲子園球場のまわりにイチゴ畑が作られていたので「ストロベリー・ボウル」というネーミング案もあった。
アメリカでは開催地の特産品がボウル・ゲームの名前としてつけられることが多いということがあったからである。例えばパサディナの「ローズ・ボウル」、マイアミの「オレンジ・ボウル」などである。
ともかくも、葉室、三浦、さらに同志社大、慶応大関係者の熱意が実り、4月13日、春の中等野球(現在の高校野球)終了後に「第1回毎日甲子園バウル」行われることとなった。
この甲子園という会場を確保するために尽力したのが、葉室と同じく毎日新聞社の記者であった今村得之である。
今村はハワイ生まれの二世で、ハーバード大と慶応大で学んでいた。日系人にして初めて『リーダーズ・ダイジェスト』に記事を書いたジャーナリストとしても知られている。この今村の努力で甲子園が確保されたわけだが、第1回が春に行われたのは、同志社大の三浦が、慶応大との春の定期戦の復活を同時期に考えていたため、これを毎日新聞社の計画に組み入れるという形になったことによる。第2回大会からは、アメリカのボウル・ゲームの時期である、秋のリーグ戦終了後に開催されるようになった。
この葉室がこだわった「ボウル」という言葉だが、米語の発音は「バウル」の方が近いということでこういう表記になったという。第5回大会までこの表記が使われた。
第1回大会は、慶応大が日系二世選手らの活躍で快勝した。慶応大は、アメリカで1940年代から多く採用されていたTフォーメーションという、関西ではまだあまり紹介されていなかった攻撃隊形を使用した。当時、関西の大学フットボールでは戦前からのシングルウィング・フォーメーションという攻撃隊形が中心だったため、にわかに対応ができず45−0と大敗した。 |